記憶にございます

ひたすら日常の記録を取ることにしました。裏道を通りたがる私。いつかタモリ倶楽部に出演したい。

教育の大切さなんて在学中にはわからない

今日は思うところがあったので真面目記事。

 

「勉強って何のためにするのか?」

学生の頃は分からない、というのが正直なところかと思います。

私もそうでした。

 

今は「文理問わず、考える力を身につけるためにちゃんとやっておけば良かったなぁ」と痛感します。

勉強が思考の判断材料を作るきっかけとなるというか。


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例えば「カレーを作る」とします。

そしたら、じゃがいもや人参という、材料を知る必要がありますよね?

おいしいルーを知る必要も?

 

それ以上に「カレーにはグリーンカレーキーマカレーなど様々な種類がある」ということを知ると、様々なルーを試したくなる。

そして、「グリーンカレーはタイの料理」ということを知るとタイの料理についての話題が増える。

タイの料理について誰かと話せるようになると、その誰かから何か面白い情報が手に入るかもしれない。

 

・・これは極端な例えですが、「知ること」で世界が広がることがあるのかと思います。

 

 

ちなみに上の例は「知識が世界を広げる例」ですね。

 

あとは数学などの答えを導く教科は「思考が世界を広げる例」だと思います。

 

問題を解くときに「こういうときは足す」「引く」という応用の訓練になるかなと。

 

(教える立場の身なのに、何だかまとめきれてません・・。)

 

何故こんなことを思ったか

 

今日は沖縄慰霊の日です。

(前述の例えがちょっと軽く、申し訳ありません。まずは「知ること」の例えを身近な話題でわかりやすくお伝えしたかったのです。)

 

沖縄戦について身近に感じられるのは、高校の修学旅行で沖縄に行き色々学んだのがきっかけです。

もし学習の機会がなかったら「ああ、沖縄戦が終わったのね」という印象で終わっていたかもしれません。

 

事前学習で聞いた「人口の4分の1が亡くなった」という事実や、ひめゆり隊の本で読んだ凄惨な体験。

 

実際に行ったガマの暗さやひめゆり平和祈念資料館での学生たちの写真。

未だに私の記憶にあります。

 

戦争が人々の生活を奪うむごさを感じた反面、感情的に考えては何の解決にもならない、でも人間だから感情を持つんだ、という葛藤。

 

日本史を教えている今、事実の羅列ではなく「何故こうなったのか?」という分析的な考えを持ちたいと思います。

 

まだ現代史を教えた経験が無いので、今日は改めて言葉にしてみました。

 

ちょっと知るだけでも、その積み重ねが大きな知識となるよう

先日、去年度まで教えていた生徒と話す機会がありました。

「新しい先生どう?」と聞いたら「○○先生も良い先生ですよ!終戦記念日について覚えられました。」とのこと。

恐らく進度からし第二次世界大戦についてのことでしょう。

その生徒にとって、先の戦争のことについて知るきっかけになったのでしょう。

 

最後に、堀江貴文さんの言葉「教養なき者は奴隷になる」を綴りたく。

私の何倍も多忙なのに、教科書にない歴史についても博識な堀江さん。

「かつてこれはこうだった。ということはつまり~」と、知識をまじえ持論を展開されてます。

それが今を分析し、今後何をするのかアクションを起こすきっかけになる。

 

私ももっと勉強しなきゃなと痛感しまくりです・・。